批判する人の思考

批判的思考では無い。
『批判ばかりする人』の思考回路について、自分の中で整理しておきたくて書いてます。


というのも、ワタシが出演していた「Daam」というドラマ。
そのYouTubeコメントに毎回出没して否定的コメントを残す人が居るのです。
個人的には、よく使われる表現ですが「見なきゃ良いのに」という気持ちなのですが、見て否定することに意味が有るからこそやっているんだと気づいた。
そこで、そうなってしまった思考回路を考えて、自分への反面教師とするべく整理しておきたかったのです。


まずは状況の確認。
コメント主は男性。
仮にS氏とでもしておこう。
結婚していて、子供は男の子が二人。
どこで働いてるのかは知りませんが、趣味は筋トレで、そこそこ頑張ってやっている。
自己顕示欲は強い方。
これらはS氏のYouTubeアカウントに行くと理解できる。
筋トレの風景をムービーに収め、それをアップしてるのですが、まぁ誰も見ていない。
しかし、随分と長い期間に亘り継続している。


コメントは
「何か別の作品のコピー」
「くだらない」
「演技が貧弱」
「アニメか?」
「見るに値しない」
「シナリオが弱い」
などなど。
同じコメントを3回連投したり、とにかく建設的ではないコメントが殆ど。


そのコメントに対しての「イイね」は多くて三つとか。


で、ワタシの中で「建設的な批判」と言うものを定義しておくと、1. 表現者の側で改善の余地がある事柄で、2. 批判する事柄に対して具体的なエビデンスなり材料を指摘出来て、3. 理想的方向への示唆を含む、と言うもの。


S氏は、そうでは無い。


この場合は、建設的な批判ではなく存在の全否定がしたいだけの超攻撃的批判だ。
なぜそんなことに時間やコストを掛けるのか理解に苦しんだけれど、結局は他人を傷つけ貶めることが「自尊心を満たす簡単な方法」だからだと思う。


自尊心を満たす行為にもいくつかのレベルというか、種類がある。
1. 多くの人に認められたい
2. 解る人が解れば良い
3. 誰に認められなくても自分だけ満たされていれば良い


多くの人が賞賛している作品や人物、パフォーマンスを批判することは、その批判に対する反応がどうであっても、上のどれかを満たすことができる。
コメントに多くの賛同が来れば、1。
少数であれば、2。
反対多数もしくは無反応であれば、3。
投稿した本人が反論に来たりすれば、最高。


批判をするのは、実はすごく簡単。
粗を探せば良いだけだし、でなければ個人的な感性を元に文句を付ければいい。
それで、多くの反応が得られるなら、コスパ良いよね。
努力は要らない。
自分が上に行く必要もない。
他人を落とせば、相対的な自分の立場は上がっていると言う思考です。


そしてこの行為は、自分自身では一つも創造性を発揮しなくて良いという観点からもコスパ最高。
表現者が苦労して作り出した創作物を利用して、たったコメント一行で、その創作物の上、表現者の上に立てる。
まぁ、そう思っているのは本人だけですけど。


書いていて思った。
これって「自分の友人には凄い人がいる」という切り口でしか自分を語れない人に似ている。


気を付けたいものです。




では、こういった批判的コメントには、どう対処すれば良いのかを考えてみたい。
「じゃぁお前がやってみろ」というのは論点のすり替えな感じを与えるので、注意が必要。
実際には、多くの言いたい事を飲み込んだ上で言っているのですが、それは伝わらない。
余談ですが、この例えとして「政治家が批判をされたときに『じゃぁ、お前が政治家になって実行してみれば良い』と考えれば理解しやすい」というのが有るけれど、これも説明として少し違う気がする。
政治の主体は批判をしている大衆側にあって、政治家はその代表者にすぎないのだから、表現者と批判者という構図とは異なる。
どちらかと言うと、レストランのシェフが客に味について文句を言われて「じゃぁ、自分で厨房に行って作れば?」と言っている感覚のほうが近い気がする。
味についての感性は人それぞれなので「お口に合いませんでしたか、申し訳御座いません」で済む話。
それを「お前がやれ」は、如何にも喧嘩腰な気がします。
だって、そんな事は無理なんだから。
そして少なくとも金銭なり時間なりで対価を払っている客にたいしての言葉ではない。
真っ当な客にも不快感を与えかねないしね。
そう言った意味で、この対処は褒められるものでは無いと思う。


結論を言ってしまうと、無視するのが一番だと思う。
上で書いた自尊心のレベルで言えば、3番が一番物足りない訳です。
そのなかでも反対意見多数よりも、圧倒的にキツイのが反応が無いという状態。
投稿された作品には沢山のコメントが来ており、そのコメントにも「イイね」が多く付いて居るものがある。
比べて自分のコメントには反応が無い。
影響力の差を感じて劣等感が膨れ上がる。
まぁ、それで火がついて連投したり、別のエピソードにコメントしに行ったり、終わらないそして勝てる見込みのない孤独な戦いが続くことになるのですが。


こうゆう事って、一度言語化すると感情の整理が容易になるのでオススメ。


スリランカでは良く見られる、人の足を引っ張ることに多大な努力を注ぎ込む人たちの心理もこれに似てて、思考回路が理解できると心穏やかに過ごすことが出来るようになる。


ムカつくけどね。

ドラマ無事終了

全100話に及ぶドラマが、昨日無事に終了。

 

 

少し長くなるかも知れませんが思ったことや感じたことを書いておきたい。

 

 

偶然回ってきたお誘いを軽い気持ちで受けたことで始まった、今回のドラマ出演。

最初は「ネタになれば良いや」ぐらいの気持ちでしたが、撮影を重ねるごとに「いい作品にしたい」という想いが出てきた。

それはやはり、現場のスタッフが真剣に取り組んでいたからだと思う。

スリランカで仕事をする上では仕方のないことだと思うけれど、もちろん日本で育った常識人からすれば不十分だと思えることも多かった。

時間の管理、モノの下準備、連絡の行き違い、、、、。

それでも放映を飛ばすことは出来ないので、最低限のところで管理は出来てる。

他の仕事で遭遇するような「他人事」な仕事感覚ではではなく、そこに居る全員が「自分事」として認識していることからくるプロ意識は感じた。

その状況に置かれれば、自ずと真剣に作品のことを考えざるを得ないし、そうなればなるほど演技をすることに緊張が伴う。

現場には10人以上いるし、カメラも数台。

実際の経験からすると、そこは意外にもすぐに慣れる。

共演者との会話シーンなんかではカメラが視界に入らないこともあるし、気分的には忘年会の出し物をやってる感覚と変わりない。

 

 

でも、カメラの向こうに視聴者が居るってことを考え出すと、もう怖い。

NG連発で共演者に迷惑を掛けたくない、なんてことを思ってドツボにはまることも数回。

 

共演者のセリフに合わせた相槌。

相手のセリフが終わったことを確認。

 

マイクが自分の近くに来たことを視界の端で確認。

感情をこめて表情を作る。

二人での会話ですが、そこはドラマなので声のボリュームもちょい大きめ。

単調にならないように身振りも付けつつセリフ。

この作業を母国語では無いシンハラ語で、さらに普段は使わない言い回しで演じるのです。

結構な厳しさです。

前もって台本を渡してくれるように頼んでも、なかなかそれは実現せず、ほとんどは「はい、これ今からのシーンね」と言って渡される。

もちろんシンハラ文字

まずは自分のセリフを読んで音の流れをつかむ。

前後のセリフでストーリーを理解し、感情を確認。

衣装を替えて、共演者と読み合わせ。

台本に載っていない状況をスタッフと確認。

実際の立ち位置で、動きを付けたリハーサル。

そこで、カメラの位置、動き、ライティング、マイクの移動を確認。

で、すぐに本番。

 

あれ、なんですかね?

役者さんてアーティスト感覚が強いからなのか、リハーサル通りに本番ではやらなかったりするんですよね。

いわゆるアドリブ。

ドラマが進行していくうちに脚本家が考慮していなかったキャラクターの性格や癖、なんていうのが自然に付いてくるんです。

作中のリベラという人物でいえば『紅茶のむか?』っていうのが口癖になったし、自信家だけどおちゃめな部分もあり、部下(ワタシね)にはボスというよりは年下の知り合いという感じで接する。

こんなことは、脚本にも書いてないし、最初のキャラクター設定には無い。

ワタシはと言えば、ボスはボスとしてある程度従順な態度で接するが、良いたい事も言うし、どちらかというと無口で淡々と仕事をこなすタイプ。

教育はさほど受けておらず、難しいことは判らないが、たまに本質的な物事の捉え方をして、ボスに重要な示唆を与える。

一度スタッフに「もう少しピシッと立つと、カメラ映りも良くてキレイ」という感じのことを言われたが、「このキャラクターは、そうゆう性格では無い」と伝えると、そばに居た監督が「うん、それでいい。ジン(ワタシの役名)は礼儀正しく生きてきた人間では無いし、ボスとの関係性も友人感覚があるのだから、今のままで良い」と言ってくれた。

 

 

実際の撮影の話に戻ると、前のシーンと光の具合が変わってしまったり、マイクの竿が影で映ってしまったり、調整するべきことは多い。

周囲の雑音や野次馬の映り込みを排除し本番を撮影するけれど、カメラワークの問題で角度や距離を変えて何度か撮影するようなシーンも多い。

そんなこんなで一つのシーンを終えると、「これ次のセリフね」と言って台本を渡される。

これを一日に8~10シーン。

脳みそが焼き切れそうな感覚です。

 

 

現場の雰囲気の話をすると、すごくアットホームな感じ。

スリランカのフィルム業界では、仲間やスタッフのことを「お兄さん」「弟」と呼び合う。

Mr.○○とか○○さん、という感じでは無いんです。

これは、上下関係に捕らわれずチームとして動く雰囲気を作ることに貢献していると思うし、独特の文化だと感じた。

出演者の家族や恋人なんかも気軽に遊びに来るし、実際ワタシも妻を連れて行きました。

大御所俳優が「ナンギ(妹の意)」と気軽に声をかけてくれるし、たまたまクランクアップの日だったので夜に小さく打ち上げをしたのですが、そこでも主演の若手俳優が「アッカー(お姉さんの意)」と呼び掛けて、自分自身の隣に席を用意してくれたり。

先に帰る我々夫婦に「ちょっと待って、これ美味しいから」と言って残った料理を折り詰めにして持たせてくれたのは、ちょっと笑ってしまった。

俳優も監督も、スリランカ人に聞けば誰でも知ってるような人。

そんな彼らが、外国人のワタシのみならず、その妻という言わば作品とは関係のない人間を仲間として扱ってくれる。

これはスリランカ人の多くが持ち合わせている特性かも知れませんけどね。

 

昨日の最終回の話をすると、ワタシのボスが逮捕されることでメインのストーリーは決着を見た。

ワタシも逮捕されて、その写真がニュースで流れると聞いていたのですが、実際にはボスの写真のみが使われた。

ちょっと残念でしたが、ドラマの終わり方を見て気分がすこし変わった。

というのも、この作品の監督が手掛けた別作品の主人公が、今回の敵役であるマフィアのボスと車中で会話しているシーンで終わったのだ。

別作品はカジノを舞台にした少しアンダーワールドなもの。

その主人公が、今作のマフィアと仲良く話してる。

YouTubeのコメント欄にも「Wes(前作)とDaam(今作)が、ここで交錯するの?え?ってことは二作品をミックスさせた続編来る?」なんて期待がちらほら。

そうなれば、ワタシが死んだり逮捕されたという事実がドラマ上で語られなかったことで、次回作に出しやすくなるはず。

逮捕劇を逃げ切ったジンがボスを脱獄させて、、、なんていう妄想が広がります。

 

まぁ、ホントにただの妄想ですけど。

続編に期待せず、他の作品に出る機会がないかアンテナを張っておきます。

スリランカのドラマに東洋人を出す必然性が、どれほどあるのか?

必然性だけで出演者を決めるわけでは無いですけど、無理のないレベルでは必要。

例えば、田舎を舞台にした恋愛劇に東洋人は異質すぎるでしょ?

そうゆう意味では狭い範囲の話ですが、その狭い範囲で大きなシェアを狙っていきます。

 

長い文章にお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

 

 

カルチャーの違い

凄いね。
ビックリです。


ワタシの出演しているドラマが遂に今夜(2021/05/07)終了になるのですが、昨日はホントに大事な局面。
ワタシも予告編で出た情報以外は、表に出さないように気を付けてました。


このドラマに限らず、スリランカのテレビドラマはすぐにYouTubeにアップされる。
『Daam』(ワタシの出てるドラマね)で言えば、8時半にテレビ放映されて、終了直後の9時にYouTubeでプレミア公開。
巻き戻しはできるけど早送りは出来ない。
で、9時半から通常のYouTube配信。


テレビの無い人や、家族に別のチャンネルを占拠された人が、プレミア公開を楽しみに見る。


なのに、そこのコメント欄にテレビを見た人が平気でネタバレを書く。
そしてそれを咎める人が居ない。
文化の違いを感じます。

人権先進国(笑)

まだヨーロッパを始めとする西側先進国を『人権先進国』だと思っている人は、事実を知ってほしい。


確かに人権にうるさい人たちも多いし、立派な人たちも多いのは事実。
自国の人権問題に対して声を上げる事も多い。


ですが実情を見ると、ある種の選択と戦略があると気づく。


最近のスイス。
外国からやって来たホームレスが増えたことに対し、他のヨーロッパ諸国への片道切符を渡し、一定期間はスイスに戻らないという契約書にサインさせて追い出す政策が実施されている。
スイスはEU非加盟ですが、人の出入りを自由化するシェンゲン協定には調印しているので、そもそも国際協定違反。
イギリスも同じことをやってましたが、EUに加盟していた当時ですらシェンゲン協定には調印してないので、ある意味では主権の範囲内とも言える。


イギリス。
数年前からゼロアワー労働という就労形態を採用しているが、これは雇用では無く個人事業主としての契約。
全て歩合に対する支払いで、雇用関係がないので労働基準法で定める最低賃金も適用されず、労災も無い。
この就労形態は今ではウーバーイーツなども採用しており、世界中に普及した。


ヨーロッパ各国
EU圏内の国籍を所有していない移民労働者に対しては、出生国の最低賃金を用いて支払いするケースもある。


これって根強い差別意識から来てるものが殆ど。
フランスなんて差別が酷いって有名だしね。
つまり自国の利益優先、自分優先です。
フランスは個人の人権にはウルサイ。
国家権力は可能な限り個人の自由を侵害しないようにするべきという意識。
なので国は助けません。
自分でなんとかするべきという徹底した個人主義
逆に気持ち良いですね。


人の国に口出ししてくるアメリカさんも、見てくださいよ実情を。
黒人差別、アジア人差別、ヒスパニック差別。
彼らはWASPの意識をまだ引きずってる。
KKKとかね。
そんなアメリカさんやヨーロッパさん、スリランカ内戦時に起きた人権問題をとやかく言うの恥ずかしくないんかね?
民衆レベルでの差別と、国として法的立場における差別は別としてもさ。
まぁ実際には、自浄作用の無いスリランカには必要な措置だったと思うけど、厚顔無恥というか面の皮が厚いというか。


フランスで素晴らしい腕を誇った日本人料理人が、去年亡くなった。
根拠のない誹謗中傷から鬱になり自殺。
同じくフランスで高品質なワインを作っていた日本人醸造家が国外退去命令を出された。
後に滞在延長を許可されたが、自国の誇る文化であるワインにおいて外国人が讃えられることへの拒絶反応として理解されている。
大相撲の横綱に外国出身の力士が成れなかった時代を思い出す。
曙が初の外国出身力士として横綱になったのは1993年です。
ただ横綱には国籍条項は無いとの判断に至りましたが、親方になるには日本人である必要がある。
これを差別として取り上げるべきなのかどうか。
国籍条項は未だに多くの場所に存在する。
公務員を始めとする公権力を行使する職業ではそうだし、放送局や航空会社の持株比率だって同じこと。
男女の区別に於いても、土俵に女性は上がれないとか、天皇として即位するのは男系男子とか。
そうゆうのに対して文句言う人って、その存在自体が好きな人では無いよね?
例えば、相撲が好きな女性が居るとして、その人が相撲に関わりたいと思って相撲協会に入ります。
恐らくその人は『土俵に女性は上がれない』という事も含めて好きなんだと思うけど。


明らかな人権問題と、人種差別や男女差別を混同しないように注意しないと、なんか変な事になる。


人種による差は、遺伝的形質の差。
これによる優性劣性。
これ自体を『無い』とするなら、現代の科学を全否定する事と同じ。
違いは有る。
ですが、それが差別に繋がるような時代では無いと理解するべき。
男女差も同じ。
形態的違いは有る。
その上で、全て同じようにするのは無理があるけれど性差をお互いに尊重するべき。
人権問題に国家や国籍が絡む場合は、国籍条項が採用されている理由を考慮すべきで、その上で議論する必要がある。
生活保護だって本来は国籍条項があるのに、人道的見地から外国籍の方達にも支給されている実績がある。
天皇制に関しては、たかだか数十年の歴史しかない男女同権の問題と、2000年間不変のしきたりを混同してはならない。
女系を受け入れた瞬間に、元に戻れなくなるのですから、現代の感覚を持ち込むべきではない。
現代って今ですから。
将来の事を考慮してないのは、いかにも浅薄。

バイアス

ウィル・スミスが「今、人生で一番最悪な体型だ」とキャプションを付けて、少し緩んだ体型の写真とともにソーシャルメディアに投稿した。


それを見て、
「私も!!」
「リアルな体型」
「美しい」
「有名人も完璧ではないと知ることは重要」
「2021年で最高の投稿」
などと絶賛されてるとか。


アホらしい。
なんかソーシャルメディアとかSNSでの絶賛って陳腐だよね。
逆も然りで、絶賛も批判も大げさ。


「ありのままの自分」で居ることが美しいとか褒められる対象になってるけど、これって過度な刷り込みから自分を追い込んでしまう人たちの反動ですよね。
細い方が美しいと「思い込んで」拒食症になり、ある時だれかの意見で目が覚めて「自分らしく」て良いと気づく。
そこからヨガとかピラティスとか筋トレにはまってプラスサイズの自分を誇りに思う。
凄く美談っぽいけど、なんかお決まりのパターンで、、、、ね。


ワタシの個人的な感想としては、随分と思い込みとか他者からの刷り込みに弱いよねって思う。
「自分らしく」という「他者」の意見に影響されてるのが、もう面白い。
あと、そうゆう考えの人たちはウィル・スミスが「一番最悪な体型」と言っている事には触れない。
緩んだ体型は美しくないというメッセージを送っているのは許せない!!とかは言わないよね。


認知バイアスというか、最初っから自分で思考して判断する癖が付いて無いんだと思う。
たまたま昨日、知り合いが共有してた写真も同じ事が起きてた。
トヨタランカというトヨタスリランカ販売代理店かな?
その公式Facebookがシェアしていた写真で、サファリ内でレクサスの目の前をヒョウが歩いているもの。
左車線車列を追い越したのか、対向車線に停車しているレクサス。
その目の前1メートルぐらいを悠々と歩くヒョウ。
これに対して
「対向車線に出ている運転者を容認するのか?」
「パーク内のルールに違反する行為」
「ヒョウに近すぎ」
「野生動物へのリスペクトに欠ける」
なんていうコメントがズラリ。


これって批判ありきでスタートしてるのよ。
そこに気づいた自分は目の付け所が良いだろ?っていう(今のワタシもそうですけど)。
なので、後に続く人間の論点が的はずれになっていくことが往々にしてあるのです。
対向車線の話がそもそものスタートで、これは至ってまともな批判。
パーク内のルール云々も良い。
そこから「ヒョウに近すぎ」は、もうオカシイ。
左車線に止まっている車も同じ状態ですからね。
しかも、サファリ内では動物を見つけた車が停車して、それに対して他の車が「何か居たのかな?」と思い続けて停車していく。
車がヒョウに近づき過ぎなのでは無くて、ヒョウが近づいて来たと考えるのが普通。
でも、そこに思い至らない。
だって、批判したいのだから。
野生動物へのリスペクト云々は、レクサス関係ない。
サファリ自体への批判なので、論じる舞台が間違っている。


「自分というものが無い」と言いたい訳じゃない。
人間は自己矛盾を抱えて生きてるもんだし、他者の意見で気づくことも実際には大いにある。
ただ、最初の話で言うと「自分らしく生きる」っていうのが既に「他者の生き方をコピーしてる」というのが面白いなと思うだけ。


最近ではあんまり使う人も居なくなりましたけど「自分探し」も、同じ匂いがする。


そんなに簡単に「自分」って変わらないので、他者の意見で影響されることはあっても、結局は自分で思ってた事の背中を押してくれたってぐらいの事ですよ。
それをみんな大げさに言い過ぎ。
あと、他者の視線とか気にしすぎ。
自分が思ってるほど他人は気にしてないから。
100人居たら、その100人全員から好意を持たれたいの?
どんだけアホなの?
友人に言われた「太った?」という一言で、拒食症になるほどダイエットしてしまったって話はよく聞くけど、ぽっちゃりが好きって人の意見は何故排除したの?
結局は自分でも思っていた事に対して、他者からの意見という理由が欲しかっただけ。


思い込みが強い自分を許しても良いんだと気付かせてくれた。
これもテンプレートですけど、正直飽きた。


最近、暇なんですよね。
だからかな?どうも口が悪い。
ワタシも「自分探し」しますわ。
その前に「仕事探し」も必要ですけど。

友人もドラマデビュー

やっと情報解禁というか、本人がどこにも表明してなかったので、ワタシも黙ってました。


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ワタシの出演するスリランカのドラマで、マレーシア人役の男性が必要なのだけど誰か候補は居ないか?と言う連絡が来たのが4月6日。
セリフは、英語とシンハラ語の両方あるって事で候補は自ずと絞られる。
というか、どっちにしろこの友人に連絡しようとは思ってましたが。
で、連絡すると「楽しそうだし興味はあるけど、メバチコができてるんです」と。
一応、写真を送って貰ってスタッフに確認したが『問題ない』とのことで決定。
撮影日は翌々日の4月8日。
セリフは4月7日に届いた。
英語とシンハラ語ミックス。


まぁ実際には、当日本番直前になって全部英語のほうが自然って事で変更になったらしいけど。
ご苦労さまでした。
https://youtu.be/oAitA5uVa0c?t=195

矢継ぎ早の対策

スリランカでは4月の半ばに正月があったのですが、それに端を発するクラスターが発生し、いまでは全土でモザイク状に隔離措置がとられている。


その他にも
1ミーティングや集会の禁止
2スーパーなどでは収容人数を25%に制限
3イベント禁止
4宗教行事禁止
5映画館、プール、ナイトクラブ スパ禁止
6ホテルは稼働率50%まで
7ビーチ、カーニバルなどパーティー禁止
8一般商店、収容人数の25%まで
9裁判所も通常の25%まで稼働率を制限
10刑務所等への訪問禁止
11塾などを含むすべての教育機関閉鎖
12結婚式禁止


これだけの対策がとられてます。
しかし、スリランカ中の人が思っているのは「ここまでするならロックダウンと同じなのだから、なぜ思い切ってロックダウンしないのか」って事。


まぁ御推察の通り、経済界からの圧力ですね。