外国に住むって難しい、からの諸々

今日感じた事です。


外国に住んで、通算で13年目。


スリランカで言えば、11年目。


それでも難しいなって思う。


文字通り住むだけなら、至って簡単。
生活できるだけの資金があれば可能です。
ここで言う「住む」というのは「馴染む」に近いかな?
どうやっても東洋人顔のワタシが、見た目でスリランカに「馴染む」のには、端から限界がある。
なのでそこは一端、置いておく。
まぁ全く関係ないわけでは無いんですけどね。


ワタシの態度にも問題があるのは理解している。


問題のスタートは、お互いに譲れない部分が違うって事かも知れない。


ワタシの中で譲れないというか許せないのは、その場しのぎの嘘とか無責任な言動。
これをされると凄く嫌。
でも、それを気にしない人が多いのも、ここの特徴。
国民性と言うよりは、多い少ないという比較の問題ね。


そのガマンできない嘘とか言い訳を正論とか理詰めで攻めると(これも良くないのかも)、さもスリランカ全体を攻撃されたかのように捉えて激昂する人とでは、まともな話も出来ない。


そこにワタシの見た目の問題が関わって来るのかもと、思う訳です。
同じことを同国民に言われたら、その反応になるのかな?って。
そこにワタシに対する何かしらの排他的な感情はありませんか?


ワタシの中にスリランカ人を見下している態度が無いかと問われると「ゼロ」とは言い難いので、これまた複雑。
他人がスリランカの事を悪く言うとイラッとする癖に、ね。
良い人もいるし悪い人もいる。
能力の高い人、低い人。
お金持ち、そうでないひと。
高学歴、低学歴。
などなど。
いろんな人が居るし、それはスリランカだろうと、日本だろうと、どこの国でも同じ。
当たり前です。


人間は社会との繋がりが無いと、生きていけない生き物。
そうである以上、自分の状況について考える。
つまり、他人との位置関係。


なので、他の人との関係性を無視して全員がフラットだという考えを持つのは、かなり難しい。


それが出来ている人も居るのかもしれない。
無差別主義というか、全ての人を尊重しましょうと言う人。
そうゆう人でも、差別主義者をゴミのように見下す人が居たりする訳で、本当の意味で誰も、もしくは何事も差別しないって難しいです。
一応言っておくと差別擁護では無いです。
実際の問題としてね。


だからこそ、アメリカでも暴動になったりする訳でしょ?


あれが悪いとか良いとかじゃなくて、何度もこういった事が発生することからも、差別意識を無くすのは難しいよってことです。




話を戻すと、「馴染む」事が出来ていないと未だに感じる大元に、ワタシの差別意識も関わっているのかなと考える訳です。
上で書いたとおり、他人にスリランカの事で悪く言われるとイラッとする事からも、ワタシはスリランカ自体が嫌いな訳じゃ無い。
妻もスリランカ人ですしね。
全く興味がないっていう人も含めて言えば、相当「好き」な部類じゃないですか?


でも「スリランカ最高」とも言えません。


嫌な思いもそれなりに体験してますし。
今回のコロナ騒ぎでもね。


もちろん普段と変わりない態度で接する人のほうが多いですよ。


でも、この時期に海外に居た東洋人は、嫌な思いをしなかったって人は居ないのでは?


こうゆう事を書くと出てくるのが「そんなの日本でも同じ」ということ。
そうゆう話では無いんです。


場所がどうとか、人種や国がどうとか関係なく、違いを尊重できる部分とできない部分がある。
通りすがりのバイクから、言い返すチャンスも与えずに安全なところから他人を罵倒する。
しかも見た目の一点だけで。
こんなことをする理由って、どこから来るの?
自分と違う、しかも少数で個人的もしくは集団としての力が弱い相手には何をしても構わないっていう意識?
中南米ではチノ(中国人の意)と罵倒される事は日常だったし、ここでもチャンチュンチョンと中国語の発音を揶揄する言葉を投げかけられる事も多かった。
最近は無かったけど、代わりにコロナ。
教育から来てるとも思えない。
周りがしてるから?
じゃぁ、その周りの人は、いつどこから影響を受けたの?
やっぱり自分との違いを認識してる事に起因してるとしか思えないし、そうなると社会的な生き物である以上は、ゼロには出来ないと思ってしまう。
ゼロにする努力や啓蒙が無駄とか無意味とは思わないですけどね。





例えば、スリランカでは出生届にナショナリティを記入する欄があるとか。
そこには我々が思うナショナリティスリランカ人とか)とは違い、ナショナリズム的な意味であるところの「自己の所属する民族や国家などの文化的共同体」を記す。
つまりシンハラとかタミルとか。
あと、宗教を記す欄もある。


宗教って生まれたときに親が決めるものなの?
シンハラとタミルのミックスは?
実務上では父親のナショナリティに分類されるらしいですけど。


こういった事って、必要?


人によっては、あるいは時代によっては差別的とか、差別を助長するって言われると思う。


「人権先進国」の場合、人材募集でも年齢や性別を条項に組みこむことは許されない時代に、問題視すらされない。


これからも判るように、人、地域、時代なんかによって差別の範囲が極端に異なるし、女性優先車両なんかで言われる逆差別問題(個人的にはどうでも良い)とか、「受け取った側が差別だと感じたら差別」的な解釈問題もある。


なので、最初の激昂されたって話も、最終的には「仕方ないし」もっと言うと「どうでも良い」んです。
そして「無関心」が芽生え、それ自体も「差別」と捉えられる。


自分自身を差別主義者だとは思っていないし、認めたくはない。
みんな、そうでしょう。


ただ差別意識がゼロかと問われると「ゼロでは無い」です。


非常に、嫌な気分になりますけどね。


気を付けなきゃなって思います。


少なくても意識はしてるんです。
大きな括りで話す場合、そこには差別的な意識が潜んでないか?って考えるようにしてます。
例えば「スリランカ人って、、、」とかね。
これ、難しいのは褒めてる場合でも差別(もしくは見下す、侮ると言い換えてもいい)意識が入ってる場合があるんですよね。
というか結構多いですよ。


スリランカ人ってフレンドリー」
スリランカは物価が安くて過ごしやすい」
「信頼できるスリランカ人」


所属する共同体によっては、これだって差別だとか見下されていると感じる人が居る。


理由は、考えて見てください。




ここまで書いておいて、差別主義への行き過ぎた攻撃は、生きづらい世の中に進んでいくだろうなって気持ちもあることに気づくわけです。


嫌ですね。
自分が差別を擁護してるみたいで。






今日あった出来事から、こんな事を考えて、嫌な気持ちになってアラックでも飲もうかと思っている次第です。