言葉狩りと非常識と

連日のように「差別」に関する話題がニュースに取り上げられている。


ワタシが目にしただけでも、スリランカ女性の入管問題、女子ボクシング選手への揶揄、メンタリストとか言う人のホームレス差別、女子重量挙げのトランスジェンダー問題、女性アスリートのユニフォーム問題などなど。


どうでも良い言葉狩りが横行していたり、成人前の過去の発言がやり玉に上がったりするのと同列には扱えない。
この判別が難しいところ。
結局は自分で自分の基準を持つしかない。
そんな時に役に立つのは批判的思考だと思う。
ニュースに対して「同意できない違和感」を深堀りすることで、自分の立ち位置、許せる範囲、許せないトピックなんかが判別できる。


スリランカ女性が名古屋の入管で治療を受けられずに亡くなった事件。
ワタシの立ち位置は、違法行為を行ったのであれば相応の処分を受けるべきであり、そこには国籍や人種、性別などで差を生じる余地は無いというもの。
入管のやった事は、誰が判断しても駄目だよ。
彼らのメンタリティは「犯罪者(不法滞在者)には何をしても良い」という、およそ現代社会の一員とは思えないような選民意識。
いわゆる「絶対的弱者」に対する「強者の暴走」です。
言い訳の余地なし。
けれど、これで「不法滞在者にビザ支給を」とはならない。
この問題に対するワタシの立ち位置は、そこです。
ルールは守りましょう。
ルールを破った人への対処にもルールがあるので、それも守りましょう。
ルール変更は、それにも手順やルールがあるので守りましょう。


女子ボクシング選手への揶揄。
これは男子とか女子とかでの分類をするなら絶対的基準を用いるべきというのがワタシの立ち位置。
見た目とか曖昧な性によるイメージとか、そういった個人の主観が入り込む余地は無くすべきだと思う。
「美人すぎる○○」とか個人の感想だし、「女性なのに」とかは個人の性意識の投影だし、それを思うのは仕方ないとして、メディアで発信することでは無い。


メンタリストの「ホームレスは死んでも良い」発言。
これは論外ですね。
自分の目に映る範囲で、自分の利になっている人だけが存在する価値があると言う、狭い世界の住人。
選民意識とか王様気取りとも少し違う。
絶対王政なんかの世界では、全てのものが王のもの。
役に立とうが立つまいが、全て王の所有物。
なので「死んでも良い」とはなら無い。
「王の許可なく勝手に死ぬことは許されない」という世界。
その代わり全ての責任を追う義務が王にはある。
彼に場合はいわば、領民が数十人しかいない領地に住む相続権も領有権も統治義務も無い「領主の次男坊」というような異世界ラノベの主人公といった感じ。
無責任なワガママ坊っちゃんです。
伝わる?


女子重量挙げにトランスジェンダー選手が出場した。
これに対してインタビューを受けたのは、いわゆるシス(性自認が性別と一致している人、一般にはこちらがマジョリティ)の選手。
「そもそも女子アスリートの差別に興味が無い人が騒いでいるだけ」と応えたそうです。
女子アスリートが置かれている立場は、男子と比較して競技機会、収入やメディアへの露出機会に不公平感があると言うのです。
これは、ちょっと違う気がする。
競技種目による人気不人気は存在するんでねぇ。
それを言うなら、そもそもの競技人口が問題になってくる。
男子サッカーが、どうしてこんなにも人気があるのかを考えればわかり易い。
競技者が多いからですよ。
サッカーをする男性(もしくはやった事がある人)が多いから、自分の所属する社会区分(男子、それぞれの国内リーグ)の競技に興味を持つ。
女子サッカーが未だにいまいち盛り上がらないのは、そもそもサッカーをする女性が増えてないから。
増えてないから盛り上がらない。
盛り上がらないから、男子サッカーを見る。
男子が敢えて女子サッカーを見る理由が無い。
上の発言をしたのは女子重量挙げ選手ですけど、ただでさえ競技人口の少ない重量挙げの、さらに女子でしょ?
競技者の人口が少なすぎるよ。
もちろん「好きなことを自由にやる権利」はあるので、競技自体に思う事は無い。
でもそれで「メディアへの露出機会が少ない」とか言われても、ねぇ。
興味を持つ人が少ないのですから、ニュース価値が無いのは仕方ない。
ならば競技の魅力を伝える努力をすべきだし、今回のトランスジェンダーの問題で望まない形だったとしても耳目を集めたのだから利用すれば良かったのでは?
それを皮肉混じりに対応しているようでは、もう無理よね。
と言うことで、ワタシの立ち位置は「自分で選んだ険しい道に対して、他者の理解が少ない」とか言うのは、無いなってところ。


女性アスリートのユニフォーム問題。
これは規定のユニフォームを着用しなかった選手に対して罰金が課されたと言う話。
これは協会側が狭量なのかも。
女性アスリートを性的な目で見る事への問題提起と言う事ですので、その視点で話を進めますが、オリンピック競技って何を競ってるのでしょうか?
身体能力ですよね?
なので衣装とかどうでも良いのでは?
競技によっては「美しさ」を競うものもある。
新体操やフィギュアスケート
こっちは、そもそもが場当たり的なんです。
アスリートに求められるのは肉体的な美しさであり機能美。
でもそれでは競技人気や人口の裾野が拡がらない。
なので一般人にも受けが良くなるように、わかり易く女性の「性的な部分」を利用した。
時代が流れ一定の地位を占めるようになると「性差別だ」となる。
水泳競技のように水着がタイムに影響するような場合を除いて、もう好きにさせたら?
実際には「わー綺麗な衣装!!」から競技に入ったフィギュアスケートの選手だって居るでしょうし、色んな思惑があって良いと思う。
けれど、競技への入り口や宣伝では「性」を利用しておいて、自分の演技では「お断り」っていうのはダブスタ満載で鼻につく。
「アスリートを性的な目で見るな」と言うのは理解できる。
それが「売り」では無いって言うのが本音でしょう。
ただ、それならメディア対応や宣伝にも利用しないようにするべき。
性的な意識を助長する「アスリートの水着ポスター」とか辞めれば?
「美しすぎる」という表現に抗議したら?
こういった発言に対して「お前のために綺麗にしてる訳ではない」とか「好きな衣装を着る自由がある」とか言う人がいるけど、性的な目で見る自由もあるのよね。
だって男だもの。
それに、それを助長するアスリートも居るし。
「女性の敵は女性」って言葉が有りますけど、ある意味で正しいし、そこにすら性利用が起きている。
もっと正確に言うなら「あなたという女性アスリートと反対の立場を採る女性アスリートも居るし、一般女性もいる。性的な目で見る男もいるし、見られる男性アスリートもいる」ですね。
色々と女性側は問題提起されてるからまだ良いと思う。
メジャーリーグの大谷選手とか、あの報道姿勢は良いんですか?
「ショウヘイ、私とデートして」っていう女性。
人気者扱いで好意的に報道してるけど、あれを男性が女性アスリートにやったら完全にアウトでしょ。
異性のアスリートを性的な、もしくは金銭的価値で見てるのは明らかでしょうに。
誰も指摘しないけど。


結局は声高に差別を訴える人も、自分の所属するカテゴリーに対する差別には敏感だけど、それ以外に対する差別には鈍い。
本当に難しいです。


例えば女性アスリートの容姿に関して。
差別と感じる人。
優位性だと思う人。
差別を武器にする人。
綺麗だと思われたい(ただしイケメンに限る)。
気にしたことが無い。


もっと色々と在るだろうけど、これを「女性アスリート」として一括りにして話してる時点で、単なる「個人の意見」である事は自明。
「思想の自由」が民主主義の根幹であるのに、わざわざ国連で「人種差別撤廃条約」を制定する理由がそこです。
他人の思想をコントロールすることは難しいし、それは基本的人権に反する。
だから自由の中にも制限を設けた。
何を想っても良いけれどヘイトスピーチは駄目だよ、とかね。
罰則を規定しないと無くならないからでしょ?


差別は無知から生じる。
それを考えれば、色んな考え方や情報を発信することに意義はあるかもしれない。
でも「全ての差別」が無知から生じる訳ではない。
知った上で発生する差別もある。
「違い」から産まれる差別だ。
そこで「違いを尊重しよう」となるけれど、人類はそこまで到達してないね。
「不干渉」ぐらいがギリギリですよ。
「無関心」が差別を助長し、間接的には肯定する事になるという意見も解る。
でも、今の世界の状況を見ると求めるレベルが高すぎる。
あと1000年ぐらいは必要ですよ。


そのうち美醜を話題にするのはタブーになる。
すると画像コンテンツは終了ですね。
そしたら次は声とかの良し悪しがターゲット?
音楽産業も衰退しますね。
次は別の能力でしょうか?
「足が遅い人への差別」とか言う人が出てきますかね?
長生きするのはずるいとか、親が貧乏なのは差別とか、給料少ない、背が高い、、、、。


「セクハラ」という概念が産まれて「セクハラだと感じたら、それはセクハラ」という定義を持ち出して来たときは「とんでもねぇな、、、」と思ったものですが、差別や偏見も同じ土俵。
人の感じ方はそれぞれなんで、差別や偏見の無い世界とか無理です。


やっぱりワタシの考えは「不干渉」ですね。
それに対して「それでは差別を肯定してるのと同じだ」と責め立てる人が居るのであれば「それは『不干渉主義者』への差別ですか?」と問題提起するだけ。


人は皆、意識的か無意識的かを問わず、偏見などを含む差別をしてしまっているという前提で、可能な限り他者に不愉快な想いを抱かせないように努める、、、ぐらいで良いのでは無いでしょうか?