破れた紙幣

ちょっと落ち込んだというか、凹んだ話です。


スリランカに限らず、海外では傷んだ紙幣が多く出回っている。
日本の紙幣は素材自体の質も高く、ほとんどの人が財布にお金を入れるので
痛みは非常に少なく、お札がキレイ。
タイもキレイだった。
タイでは王様の御尊顔が肖像画として描かれているからなのか、
紙幣を折り曲げたりぐちゃぐちゃにするといったことが少ない。


スリランカは、まぁボロボロ。


なので破れてテープで貼り付けたような紙幣に出くわすことも、まぁ良くある。
破れた紙幣は銀行で交換してくれるのですが、みんながそれを嫌がるし、
場合によっては銀行が受け取りを拒否することも有るらしく、
不注意にも破れた紙幣を掴んでしまった場合には、ババ抜きのように
誰かに回さなければならなくなる。
お釣りとして紙幣を貰う際には良くチェックして、破れていれば突き返す。


で、今回。
残念ながら傷んだ紙幣を掴まされた。
自分の不注意なのですが、急いでいたのでチェックしなかった。


ボロボロの20ルピー札。
まぁどっかで使えばいいやと思っていたのですが、
スーパーに行った際、前に並んでいた客が破れた2000ルピー札を使い、
店員もそれを受け取った。
あぁ、ここでは受け取ってくれるのか・・・
そう思って件の20ルピー札で払おうとすると、
コレは受け取れないと言われた。


「今、破れた2000ルピー札を受け取ってたじゃないか」
そう言うと、
「あれとコレでは破れ方が全く違うし、補修の仕方も違う。
 あの2000ルピーは銀行で交換してもらえるけれど、これは無理。
 納得出来ないなら自分で銀行に行けばいい」
と言われた。
まあ仕方ない。
38ルピーの石鹸を2つ買って、結局100ルピーで支払うことにした。
すると、店側でお釣りがないという。
24ルピーのうち2ルピーが不足。
そんな時スリランカでは飴をくれたりするのだが、
俺は言ってやった。
「飴なんか要らないよ。お釣り無いなら銀行に行けばいい」と。


結局、自分の財布から2ルピーを出してお釣りにしていた。
凄く不機嫌だったけどね。


長くなってきたけど、ここからが本編です。


その後バスに乗り込んで家に向かったのだけれど、
お店での出来事でちょっとイラついていたので、その勢いで破れた紙幣を
使ってみることにした。
案の定、拒否されるのですが、バスでの対処の仕方はいつも同じ。
破れた紙幣を突き返されたなら、高額紙幣を代わりに出す。
バスの車掌は細かいお釣りを大量に放出するのを嫌がるので、
高額紙幣の受け取りを基本拒否する。
「破れたのがダメなら、この2000ルピー札しか無いんだけど」
という、まぁ単なる嫌がらせですな。
俺からすれば「どちらもお金ですよ」と言いたいわけなのですが。


それを見た車掌さん。
俺の嫌がらせだという本意を的確に汲み取ってくれて、超不機嫌。


結局、その受取も拒否。


車掌さんからすれば、細かい釣り銭が無くなって、他の多くの客との対応が
面倒になるよりは、たったの23ルピーを無料にしたほうがマシなのだ。
別に彼らの給料が変わるわけではないし。
でも、まあお金は要らない、なんて言われたのは初めてのケース。
こっちとしてもフクザツな気分で、
「うーん、俺が得するのも変だし、この浮いたお金は誰かにあげよう」
と考えた。
破れていてもお金はお金。
施しを受けている人たちに渡しても使えないかもしれないし、
使えるかもしれない。
それはその時の運。
申し訳ないけど、使えなかったらゴメン。


そんな気持ちでバスを降りて、家に帰る途中、一人の女性が手を出して
歩いていた。
気分的には「あ、ちょうど良かった」というのが正直なところ。
近づいて、その手に破れた20ルピー札を載せる。


渡した瞬間に気づいたのは、その人は目が見えない人だと言うこと。
そして、その手に破れた20ルピー札を置いた時に、その女性が
消え入るような小さな声で言った。


「ピン シッダ ウェーバー・・・」




「施しをしてくれた貴方に、徳がありますように」
という、とても美しい言葉。




はっきり言って、こんなにも落ち込んだ気持ちになるとは、
想像していなかった。


施しをすることに対して、特に悪感情もないし、
こっちの都合でやっていることだと理解はしているのだけれど、
相手のことを思いやらないでする施しというのは、自分も他人も傷つける。


悪気が有ったわけではないけれど、彼女の立場までは考えていなかった。
目が見えないということで、あとで破れた紙幣に気がついて、
嫌な思いをするかもしれない。
場合によっては使えないお金を渡されたことに怒りを覚えるかもしれない。
翻って自分の場合は、どうせ施しなんだからという感情があったし、
自分の中で帳尻が合わせられればそれでイイという、割り切った考えだった。
施しを受けて当然という人も多いし、感謝の言葉を期待していなかったので、
感謝されたことに狼狽してしまった。


施しをする時は「布施の三忘」という気持ちでいる。
何を施したかを忘れ、
誰に施したかを忘れ、
さらには施した事自体を忘れなさい。


それが「布施の三忘」。
恩着せがましくすることは辞めて、善い行いが出来たと逆に感謝するべき。
恩を感じるかどうかは相手の判断にすぎない。


自分の好きな考え方で、いつも心がけているのだけれど、
今回の出来事は、忘れないように心に刻む。


ちょっと抹香臭い話になってしまった。
ま、たまには良いでしょ。