日本では総裁選が話題。
アメリカを見れば11月には大統領選が在るし、スリランカでは明後日が大統領選挙。
こんな時期だからこそ政教分離についてもう一度考えてみた。
なぜならスリランカでは袈裟を着たお坊さんが大統領選挙に出たりするので、色々と気になっていたのです。
で、今まで色々と誤解していた部分があったなと思ったので、ここに書いておこうと思った次第。
まずは、政教分離は「政教分離の原則」というぐらいで、ほぼ全ての国で採用されている考え方なのですが、政治と宗教を分離するというよりは国家と宗教を分離するという考え方が正しい。
つまりは、宗教団体が政治団体を作って政治に参加することは、なんら問題にはならないということです。
とは言え、立法府で特定の宗教に肩入れするような法律を作ることは出来ないし、ある宗教団体で問題が起きた時に問題追求の手が緩められるといったことも許されない。
これが、国家と宗教を分離するという考え。
これを踏まえたうえで、政教分離にも様々な形態がある。
国家は宗教とは完全に分離し、宗教団体は単なる法律上の組織に過ぎず、その運営に国家は関与しないという考え。
日本はこの立場です。
アメリカ、インド、フランスなんかもここ。
特定の宗教を国教とするような国では、憲法上では政治と宗教を分離しているが、国家元首が信仰しているという理由や、国民の大多数が信仰しているという理由から、国家は特定宗教を支援するという立場を取っている、
当たり前ですけれど、(建前上は)信仰の自由は保証されている。
イギリス、スペイン、アジアの仏教国、イスラム教国、中南米なども。
あとは、カトリック教国などでは教会と国家の間で一種の条約を結んだような形で運営する形態もある。
在る一定の権限を教会から国家に譲渡するような形を取ることが多く、司教の任命や給与の決定など、教会は国家から独立して決定することが出来ない。
ドイツとかフランスもここに入る場合がある。
こんな感じでいくつかの形態が存在していますが、これも厳格に分類できるものではなく、グラデーションになってますね。
完全に分離していると言われる日本やアメリカですら、例外が在る。
日本では総理大臣の任命は皇居で行われる。
天皇陛下は神道の大祭司ですので、これをもって「神道に特別な権限が付与されている」と考える人もいるかも知れない。
アメリカでも大統領は聖書に手をおいて宣誓することで初めて大統領となる。
いずれにしても、基本的には国家と宗教は分離して、宗教の運営には口を出しませんというのが政教分離の基本的な考え方。
そのうえで、伝統や国民感情を考慮して、儀式や祭典などで宗教の力を国家が借りることは有り得る。
その対価として、国家元首が信仰告白をしたり、多少の優遇措置を与えることはあったり無かったり。
信教の自由は認めつつも、国民の多くが信仰し生活に根付いている宗教が存在する場合は、事実上の国教として扱う場合もある。
こんな感じでしょうかね。
なので、総理大臣が天皇陛下から任命されるというのは伝統、もしくは征夷大将軍などの任命が天皇によって執り行われていたことから来る歴史的国事と取れる。
アメリカ大統領の宣誓は、伝統的国家行事。
歴史の短いアメリカは新たな伝統で心の拠り所となるような物が必要だったのでしょう。
初代の頃はプロテスタントばかりだったので、その民心に寄り添って聖書に宣誓したのでしょう。
中々に面白い。
で、最初の話に戻ると、スリランカは明後日が大統領選挙。
現職のラニル・ウィクラマシンハ、野党第一党のサジット・プレマダーサ、共産党系のアヌラ・クマーラ・ディサーナーヤカ、ラージャパクサ一族からはナーマル・ラージャパクサ。
あとは泡沫候補と言った感じでしょうか。
今ところ、ニュースによって多少の誤差はあるもののラニル、サジット、アヌラの戦い。
ニュースソースによって、ラニルとアヌラがそれぞれ一位になっているものがあるので、良くわからない。
が、サジットはどの調査でも一位にはなっていない。
あと、ナーマルは全く勝負になっていない。
全体で39人。
全員男性。
供託金は5万ルピー(2万5千円ほど)なので、だれでも参加できますね。
お坊さんが出馬してるんですけど、この人が男性陣から密かな人気を集めている。
理由は単純明快で、一夫多妻制を容認すると発言したから。
馬鹿ですね、男は。