フェイスブックをダラダラと見ていると「日本人(に限らないけど)文章を書くの好きなんだな」と思う。
例えばコレ。
極端ではなく、スリランカ人のコメントではこういった感じのモノが多い。
もしくは
こんな感じに定型文。
何かコメントしなきゃとか、したいとか思ってるのでしょうが、個性が無いし、コメントをしたという事実が必要って感じがしないでも無い。
それに比べて余所の国の事は分かりませんが、日本人のコメントは、例えば上のスクショみたいに開いた画面全部同じ文面ってことは無いと思う。
あと、これは何処の国でも同じかも知れませんが、みんな文章読まない。
そして、スリランカ人は自分で調べようとしない。
例えば、このスクショ。
フェイスブックにあったオンライン広告に対するコメントね。
全部値段を聞いてますけど、広告の本文にリンクが有って、それをクリックすればトップの画面に値段は書いてある。
「price」「pp」「How much」とか書くより、よっぽど早い。
そして律儀に返信してる業者ね。
オンラインで多数にリーチ出来るデジタル社会のメリットが、完全に失われている。
昔から日本は出版点数が人口の割に多い国。
イギリスや北米、中国ももちろん多いですが。
スリランカ人の我が妻の家には本と呼べるものは教科書しかない。
それすらも、大学に入って以降のモノだけ。
それ以前の教科書は、買取り方式でなく、次の学年が再利用するという事で回収されたと。
なので、落書きとか絶対にダメ。
もちろん、それなりに裕福な家庭なら本の数冊数十冊はあるんでしょうけど。
本も読まない、映画も見ない、音楽も聞かない。
日本なら、いや先進国なら誰でも知っているような偉大な作家、全米が泣いた映画、クラシックの作曲家。
スリランカの田舎では誰も知りません。
事実、妻はコナンドイルもチャップリンもディズニーも知りません。
まぁちょっとヴァイオリンをやってたらしいので作曲家は多少は知ってましたけど。
こんな環境に居ると理解できる。
日本の教育も捨てたもんじゃなかったなって。
そして、図書館を自由に使えたことも、本屋に大量の本があった事も、音楽の授業で一様にカツラを被った人の遺影を覚えさせられた事も、国によっては望めない贅沢だということも。
そういった当たり前が有ったからこそ、今の自分があり今の日本人がある。
ありがたいことです。