コメント文化③

駄文を書き連ねてますが、昨日の内容から派生して少し追記。

 

スリランカではテレビに出てる俳優さんや女優さんが悪い印象を持たれているケースも少なくない。

 

現実と創作物との切り分けができず、ドラマに出ていたキャラクターの印象を本人のパーソナリティと同じように感じてしまう人が少なからず居るのです。

例えば、少し貞操観念の欠如したキャラクターを演じた女優さんが、プライベートでも遊んでいるとか、お金持ちの愛人をして生計を立てているとか誤解されることが良くある。

ブライダルのモデルとか、下着、水着なんかのモデルをすることも多いので、その印象が追認される状態。

ですが、常識的に考えてほしい。

人口2000万人ほどの小さな国です。

数人たどれば誰とでも知り合いだと言えるような国で、しかも国民の多くがスマートフォンで写真や動画が撮れる時代に、悪目立ちすることにメリットが有るかどうかって事は考えればすぐに理解できる。

 

知り合いの銀幕俳優さんも言ってました。

外では一切お酒を飲まないし、女性と飲むなんてありえないって。

そりゃぁそうですよ。

人気商売ですし、一目見れば誰もが気づくような有名人ですから、なにかゴシップでも書かれた日には商売上がったり。

幸いにもスリランカは店を貸し切ったりすることはよくあるので、映画の打ち上げとか仲間内のパーティーとかでは飲むらしいけどね。

そういったクローズドな場所でないと安心して飲めならしい。

ワタシだって同じ。

何かワタシが不法行為や倫理的にまずいことをしたとします。

例えばそうですね、スリランカ人の若い女の子に手を出して逃げたとしましょう。

東洋人であることは分かりきっていること。

で、シンハラ語の話せる東洋人。

これだけで、かなり絞り込めます。

写真の一つでも中国人に見せるだけで、これは中国人ではないと判断が付きます。

東洋人同士では同胞かどうかはなんとなく解るもんですから。

で、次に日本人に見せます。

スリランカの日本人は1000人も居ませんから、数人に聞けばワタシだと言うことはすぐに判明します。

つまり、最短で二人。

多くても五、六人に当たればワタシのもとにたどり着けるのです。

こんな状況で悪さできますか?

結果として、品行方正なナイスガイの誕生です。

 

俳優さんや女優さんも同じこと。

一般人の方がよっぽど恥知らずなことをしてますよ。

ワタシが一般人ではないってことが言いたいわけではありません、一応。

 

本当に大変だと思います。

日本とかなら有名になって面倒なことが多くても収入が多いから我慢できるってことあるでしょうけれど、スリランカの俳優さんの収入なんてたかが知れてますし。

ここ数ヶ月でも、ワタシの知り合いの俳優さんが外国に出稼ぎに出ました。

一人は子役からやっていて、誰もが知る有名俳優。

それでも車を買うのに一大決心が必要なぐらいの収入でした。

彼はアメリカに行っちゃいました。

もちろん、俳優としてとかではなく、ただの出稼ぎ労働者としてです。

もうひとりは日本に。

 

苦労や制限は多いのに、それに見合った収入が無い。

苦労には、悪意のある無しに関係なくオープンに語られてしまうプライバシーや的はずれな批判も含まれます。

 

少し話はずれますがスシローの事件でも問題にされている、不法行為をした人のプライバシーを晒すことにどこまでの正当性があるのかという話。

抑止力という人も居ます。

内部告発の一種だという人、ただのプライバシー侵害だと言う人。

いろいろな意見はあって良いと思うけれど、自身の発言には責任を持たねばならない。

誰か(例えばスシロー)の代わりに言ったというような自己正当化はヨロシクナイ。

スシローや警察からの情報提供の要請が在ったわけでもないのに、勝手に意図を汲んでやった、はマズイ。

もちろん、不法行為自体が悪いのは当たり前の話。

その上で、悪さをした相手を罰するためとか訴えるために、自分が不法行為をしては意味がない。

ましてはただのドラマのコメントに差別的な発言やプライバシーを乗っけるのは、あまりにも危険な行為という認識を持ってほしい(スリランカ人ね)。

 

一昨日からの流れでつらつらと書いてきました。

実際の会話でネット用語を使うことに違和感が有るというのは、その言葉の変化する過渡期だからというのもあると思う。

ワタシが、その知り合いにマイナスな感情を持っていたということも大いに関係があると思うし、それこそどんな言葉を使うかなんて個人の自由です。

使うのが良い悪いという話ですら無い。

攻撃的なコメントも、最終的には個人の自由。

そこに意図があったかどうかも関係ない。

ただ、誹謗中傷やプライバシーの勝手な開示、差別的発言なんかをするのであれば、何かしらの責任を取らされる覚悟は持っておいたほうが良い。

でなければ、読むだけにとどめたほうが得策。

文化や世代の違いで片付けてしまうのは楽ですが、何事も知った上で反対の立場に居ることと知らずに拒絶するのとでは大きな差がある。

 

それすらも「うるせぇ」とか「余計なお世話」とかって感じる人も多いかもしれませんが、それでいい。

そう感じることも、こっちからすれば「知ったこっちゃない」というのが結論。

他者との関わりも持たねば生きていけないのが人間ですから。

何を言うのも自由。

何も言わないのも自由。

言うなと言うのも自由だし、訴えられるのも自由で、何をしても良い。

 

「そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ」と中島みゆきも唄っています。

大抵のことは時間がすぎると輪郭がぼやけてしまいます。

ただ、活字やネットのコメントというのは時代を経ても残るものであり、さらには音声や動画でも残ってしまう時代。

意図しない発言が大きな問題にもなり得るし、曲解されて損害を被ることも有る。

この年齢になると保守的というか、大人しく生きていこうという気持ちが大きくなります。

それに異を唱えたい自分も居るのは間違いないですが、少なくとも自分で責任の取れないような事はやってはいけない。

話がとっちらかって、「どうした?なんかあった?」と思うかもしれませんが、何もありません。

何もなさすぎて暇なので、思うがままに書いてるだけです。

今もYoutubeを見ながらダラダラと書いていますし。

 

ということで、長くなったのでここらで終わりにします。