今年最初のポヤ

今日はポヤデー(満月)。
仏歯寺にお参りに行きました。


穏やかな気持でお参りしたかったのですが、
仏歯を拝むために並んでいる人たちの態度が悪すぎて、
かなり気持ちがささくれ立った。


どんどこ列に割り込んでくる人たち。
まぁ、列に並べないのはランカ人の標準仕様なので、半分諦めているのですが、
我々の目の前に入ろうとしてきた女性(5歳ぐらいの子供連れ)には、
ちょっとムカツイたので、注意した。


「みんな列に並んでるんだから、後ろにお願いします」
というと
「私達さっきまでそこに居たのよ」
と返してきた。


「一度並んでいても、別の用事で列を離れたなら、並びなおすべきでしょ?」
というと
「あれ、あなたシンハラ語上手ねぇ」
と、トンチンカンな答え。


なので
シンハラ語も話せるし、スリランカ人の良くない習慣も知っている。
 子供に『ルールを守らない母親』と思われたら恥ずかしいでしょ?
 『さっきまでそこに居た』っていうなら、
 俺も一年前ぐらいにここに居たことあるし」
と言った。


その女性は睨みつけるようにしてワタクシを見る。
それに対して無表情で対応するワタクシ。
30秒ほどの見つめ合いを経て、何事もなかったかのように横入りする女性。


それを見て、並んでいた別の女性が、
「あなたの言っていることは正しい。
 でもこういう理屈の通らない人に何を言っても無駄よ」
と一言。


なんだか、そんな人達と一緒に並んで居るのが馬鹿らしくなって、
列を離れた我々。


「仏歯により近い場所でお祈りがしたい」
「仏歯をより長く見たい」
それと、徳を積む事や御利益が有るということが連動しているわけではない。


「仏歯により近い場所でお祈りがしたい」と言っても、
それで横入りしたり、子供やお年寄りを押しのけてはダメ。
「仏歯をより長く見たい」と言っても、
他の人も同じ事を思っているんだという気持ちを持って、
速やかに場所を譲ることができなくては、
ピン(徳)どころかパゥ(悪徳)にしかならない。


スリランカ人のこういった感覚は、ある種独特なものがある。


聖地スリーパーダや聖地仏歯寺に平気でゴミを捨てて帰る。
お参りに来てお年寄りを突き飛ばす。
自分さえ良ければ、家族さえ良ければ、の感覚が非常に強い。
でも、他人の目を気にするからなのか、
バスなどで妊婦さんに席を譲る事は、普通にする。
日本より数段まし。




ブッダは、こう説いた。
「教えのもとに相和し、相敬え」
これは、
『弟子たちよ、おまえたちは教えのもとに、相和し、相敬い、
 争いを起こしてはならない。
 水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。


 ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、
 道の楽しみをともにせよ。つまらないことに心をつかい、
 むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実を取るがよい。


 弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、
 おまえたちのためにこの教えを説いた。おまえたちはよくこれを守って、
 ことごとにこの教えに従って行わなければならない。


 だから、この教えのとおりに行わない者は、
 わたしに会っていながらわたしに会わず、
 わたしと一緒にいながら、わたしから遠く離れている。
 また、この教えのとおりに行う者は、
 たとえわたしから遠く離れていても
 わたしと一緒にいる。


という話で有名。
スリランカ仏教徒なら、誰もが知っているだろう。
で、実践は?
仏歯の近くに居ても、他人を思いやることが出来なければ
なんの意味もないということに、そろそろランカ人も気づくべき時なのでは?