菩薩というのは修行時代の仏陀を指していた。
それが後に大乗仏教での修行者を指すようになる。
仏陀の神聖性を重視する流れ(生まれながらにして徳の高い存在だったとしたい)から、修行時代の仏陀ではなく仏陀の前世を菩薩とする解釈も誕生した。
我々のような徳の低い人間が未だに救われていないのは仏陀の活動自体に制約があるからだという考えの誕生で、仏陀に成り代わって活動する存在が必要となり文殊菩薩や普賢菩薩が誕生。
悟りを開いていながらも成仏することを選ばずに我々を助けてくれている存在が菩薩と呼ばれるようにもなった。
菩薩というのは、このように様々に定義されており、一意に決められない。
現在のスリランカでは上座部仏教が広く信仰されているが、過去には密教や大乗仏教が信仰されていた時もある。
その名残は未だにあって、ワタシの友人にサマンという名前の人が居ますけど、これは普賢菩薩を指す。
今スリランカでMahinda Kodithuwakkuという人物が時の人となりつつあるのですが、彼は自身をAwalokatheswara、つまり観自在菩薩と名乗っている。
そして仏陀の次に自分が成仏するのだと。
大乗仏教では仏陀の次に成仏し仏陀(如来)となるのは弥勒菩薩とされていて、観自在菩薩つまり観音様ではない。
もしかしたらスリランカでは異なるのかもしれない。
どういった経緯でこのMahinda なる人物が観自在菩薩を名乗り、スリランカの一般人のみならず重要な寺院の僧侶までもが敬意を払うようになったのかは不明。
宗教に救いを求める人が増えるのは、いつだって庶民が苦しんでいる時。
この騒動、国が乱れてる証左とも言えるのかも知れない。